牛の人工授精や出産、育成等に10年間携わったのち、新規就農へ
広い空をしたがえて秀麗な日高山脈が迫る、十勝平野南部。幕別(まくべつ)町忠類(ちゅうるい)地区の牧場、「iふぁ~む」を訪ねました。
牧場主は岩谷史人(いわたにふみひと)さん(53歳)。京都府出身で動物が好きだった岩谷さんは、九州東海大学(現東海大学)農学部畜産学科で学び、グリーン近江農業協同組合に就職。同農協が北海道十勝の忠類地区で運営する「素牛(もとうし)生産牧場」に赴任し、牛の人工授精や出産、育成等に10年間携わります。
そして1999(平成11)年。慣れ親しんだこの地で、妻の智恵(ともえ)さん(52歳)と新規就農を果たしました。
写真の背景は森とお花が描かれた牛舎の壁。岩谷家の娘さんの友人が描いてくれたそう
どうしても牛が自由に動けるフリーバーン牛舎にしたかった
知人酪農家が離農した跡地と、当時一頭約38万円だった牛を40頭購入。そして退職金750万円を注ぎ込み、フリーバーン牛舎(※)に改築してのスタートでした。フリーバーン牛舎は牛が自由に動けることが最大の特徴で、史人さんがどうしても造りたかった牛舎です。
起伏に富む牧草地を毎日歩く牛たちはみな長寿で多産
毎朝、史人さんは50頭の搾乳を終えると、牛たちを放牧地へと放ちます。
「iふぁ~む」の放牧地は起伏に富むため、牛たちは上り下りしながら草地を踏みしめ、牧草を食べます。この習慣が牛の脚を鍛えるようで、「iふぁ~む」の牛たちは長寿で多産。14歳で出産をした牛もいたというから驚きます。14歳といえば、人間なら還暦過ぎくらいでしょうか。
史人さんは作業の合間、常に牛に声をかけ、からだに触れています。
牛にとって私たち酪農家は母親代わりですから、触れあいを大切にしています。特に仔牛時代から愛情を注いで、叱るべき時はしっかり言って教えると、牛はやさしく健やかに育つと思うんです。
母親代わり、ですか。
そうです。乳用牛の母牛と仔牛は、出産後すぐに引き離されるのが一般的。うちも産後30分から1時間くらいで別々にします。親子の情が芽生えてから離されると、どちらもストレスで体調を崩したり乳量が減ったりしますので。
人間の都合で母仔を離すのだから、人間が母親役に徹する。それが岩谷牧場の考えなのです。現在、仔牛の世話は、妻の智恵さんが担っています。
今でこそ、仔牛一頭一頭の性格や体質、顔色を見ながら世話ができるようになりましたが、就農したばかりのころはきめ細かな体調管理ができなくて、続けざまに何頭も死なせてしまいました。めげましたよ。もう、毎日泣きながら仕事をしていました。
岩谷夫妻は大学の同級生で、共に畜産学を学んだ同志。
2人で好きな仕事に就いたものの、最初は経験もなければお金もない。機械も十分に持っていなかったから作業が大変でね。だから、いつもどうやって工夫しようかと考えていて、それも楽しかった。
そう智恵さんが振り返ります。
ここへ来た当初は地域の人々から、「何もないから不便でしょう」と気遣われたものです。でも私たちにしてみたら、貴重なものであふれていました。広い草地と自然があって、経験豊富な酪農家がたくさんいる。最高ですよ。
そう話す岩谷夫妻の破顔は、十勝の青い空によく似合います。
指を吸わせて仔牛と遊んであげる岩谷さん。仔牛は乳頭形状のものを吸うのが大好き
十勝平野南部、幕別町忠類地区の「iふぁ~む」は、来訪者を歓迎してくれる牧場です。
2009(平成21)年に「酪農教育ファーム認証牧場」になってからは、地元はもとより北海道各地や本州からも人が訪れるようになりました。
都会の子どもたちが観光をかねて体験に来るツアーや、高校生や教育関係者が酪農と食を学ぶプログラム…。訪れる人の年齢や立場、目的はそれぞれですが、岩谷夫妻はいつも酪農家の日常のままで迎えてくれます。
「iふぁ~む」にはホルスタイン種だけではなく、ブラウンスイス種やジャージー種、ヤギ、犬までそろっていて、触れても大丈夫なよう飼育されています。だから子どもたちは大喜び。
しかし、夫婦2人で牛の世話から牛舎管理、搾乳をこなしつつ、随時、酪農体験や研修を受け入れることは、けっして楽ではないはず。
それでも牧場を開放し、年間150名ものゲストを迎えている理由は何でしょう?
牛の一生を通じて、いのちや、いのちをいただいて生きていることなどを感じてもらいたいからです。
牧場経営をしながら、地域や人、社会と関わっていこうとする。これもまた、日本の酪農家の姿でした。
週末になれば、帯広畜産大学の学生たちもやって来ます。史人さんの搾乳作業を手伝った後、酪農談義に花を咲かせるのはいつものこと。
後継者不足で酪農家戸数は年々減っていますが、その一方で新規就農を希望する学生は多いんですよ。でも家屋付きの離農跡地がないとなかなか難しい。牛も今じゃ私が就農した17年前のほぼ倍、一頭70万円くらいします。新しく牛舎を建てようものなら3千万円もかかる。そこが新規就農のネックなんです。だから私は、資金的な課題にアドバイスをしていくなど、若者たちの相談相手になっていくつもりです
「iふぁ~む」は人が集まり、交流する牧場なのです。
では最後に…。「iふぁ~む」にとって、大切なものは何ですか?
絆です。牛、家族、酪農を教えてくれた地域のみなさん。そして来てくれる人々…。すべての出会いと絆が宝物です
「iふぁ~む」では、あたらしい絆が生まれています。
お話を伺いました
北海道中川郡幕別町忠類】i(あい)ふぁ~む・岩谷牧場 飼養頭数/100頭
幹線道路から離れてたたずむ「iふぁ~む」。それでも人々が集まります