祖父が1935(昭和10)年にこの地を拓いてから三代目
こんな市街地に、本当に牧場があるのだろうか。なにしろ、最寄り駅の周囲には高層ビルが建ち並んでいるのだから…。
それでも商店街を抜けて5分ほど歩くと、やがて緑豊かな住宅街が広がり、突然、そこだけぽっかりと時間を止めたような空間が現れました。大きな木立の奥に黒々とした土壌が広がり、木造牛舎が並んでいます。
ここが目的地の「小泉牧場」。牧場主の小泉勝さん(46歳)が約900坪の敷地で、搾乳頭数35頭を含む50頭を飼養しています。祖父が1935(昭和10)年にこの地を拓いてから三代目。だから小泉さんの愛称はそのまま「三代目」です。
小泉牧場の三代目、小泉勝さん。牛を丁寧に観察し健康管理をしています。
「牛飼いです」と笑顔で答えるのが三代目のつね
初対面の人に職業をたずねられた時は、「牛飼いです」と笑顔で答えるのが三代目のつね。
かつて、祖父の時代には練馬区だけでも牧場が20戸以上あったそうです。今では東京都23区内の牛飼いは、うちだけになってしまいましたが…。それでも現在、東京都酪農業協同組合には49戸の牧場が加入しているんですよ
東京都内に、そんなにも牧場があったことに驚きました。
もともと東京は牧場がさかんだったんです。幕末から明治の政治家、榎本武揚が、1873(明治6)年に神田猿楽町で「北辰社牧場」を始めていたことはご存じでしたか?武士の失業対策もかねて、明治初期の東京では酪農業が推奨されたようです。明治32年には3,000頭も飼われていたそうですよ
小泉さんの話で、意外にも明治時代の東京が牧場銀座だったことを知りました。牛乳は新しもの好きの江戸っ子たちに好まれ、広がっていったことでしょう。
しかし昭和40年ころから東京都内で住宅都市化が進むと、一転、牧場はしだいに減っていきました。そんな時代の移り変わりを経て、歴史の証のように残った小泉牧場。その営みは、地域や地域住民に寄り添う姿が印象的です。
牛は生後8カ月齢から22カ月齢まで、北海道の育成牧場に預けられ、妊娠して帰ってきます
たとえば、小泉牧場の敷地内に散布されているもの…。
ああ、それはコーヒー豆のかすです。コーヒー工場から仕入れて、消臭のためにまいています。近隣の皆さんになるべく迷惑をかけないようにと思って。
その努力ひとつをとっても都市部特有のもの。では飼料もすべて購入を?
そうです。乾草や配合飼料などを購入して牛たちに与えています。ここは東京ですから、草地を持てないのは仕方がありません。(笑)あとは、食品製造の過程でできるおからなどを分けてもらって飼料の足しにしています。
都市から出る有機資源を利用して農業を営む。これもまた都市と共存する牧場の才気でしょうか。
小泉牧場は「生産緑地」に指定されています
使命としている大切なライフワークは、子供たちの学び
そして…。三代目が使命としている大切なライフワークもあります。それは「酪農認定ファーム認証牧場」として、地域の小学生を毎月1回迎えている活動。2003(平成15)年から、小学3年生が小泉牧場を総合学習の場として学んできました。
子どもたちは牛を見て、“でけえ!”とか“あったかい”って言います。私はいつも、“みんなが飲んでいる牛乳は、お母さん牛の命の一滴です”と話します。今はピンときていないかもしれませんがね。(笑)でもそれでいいんです。目で見て耳で聞いて、鼻で匂いをかいで。五感で体験したことが、いつか開花したらそれでいい。私は酪農体験で、子どもたちのこころに種をまいていると思っています。
三代目がまいた種から、どんな花が咲くのでしょう。
わかりません。でも成長して職業を選ぶ時に、動物に関わる仕事をしたいとか、食に関する仕事に就きたいとか。何かを見つけてもらえるかもしれないじゃないですか。結婚して子どもができた時には、命の尊さを感じたり…。そうなってくれたら嬉しいです
小泉牧場は地域の児童だけではなく、親子見学や一般の見学も歓迎。ご近所さんも気軽に立ち寄りますから、小泉牧場を訪れるのべ人数は、年間1万人以上にものぼるそうです。
三代目はなぜたくさんの人を迎え、こころに種をまき続けるのですか?
東京の牛飼いは、たくさんの人の情に助けられて生きているんです。だから、地域の皆さんの役に立ちたい。それだけです。私はここで、一日一日、牛を飼っていけたらそれでいい。
小泉牧場には、江戸っ子酪農家のさわやかな気風がそよいでいました。
お話を伺いました
【東京都練馬区】小泉牧場 飼養頭数/50頭
祖父の代からの木造つなぎ牛舎。その向こうには高層マンションが